中四国支部便り (会員数:25名、中国地区8名 四国地区17名    


2017年中四国懇親会



愛媛県の久万高原町大成神宮と道後の湯築城を訪ねる

堂ヶ森方面1689m

M友会中四国支部では、10月30日〜11月1日の二泊三日、河野水軍と関係の深い久万高原町大成(おおなる)神宮と道後温泉の入口にある湯築城を訪れ懇親会を開きました。

第一日目




JR松山駅午後5:20分集合タクシーに乗り合わせ松山全日空ホテルにチエックイン、すぐ近くの宇和島郷土料理店で楽しい夕食会、遅くまで話に華をさかせました。

第二日目



8:00時、貸し切りマイクロバスで久万高原町に向かいます。

久万高原町は四国で一番高い石鎚山(標高1982m)の南側で松山市内から34km三坂峠の分水嶺(標高720m)を超え高知県との県境にある高原の町、冬は石鎚山から吹き下ろす北風で四国でも一番寒く雪の多く積もる所で紅葉も10月20日頃から始まります。

御三戸嶽、面河川と久万川の合流点



大成(おおなる)入り口 大成神宮大鳥居前
大成神宮大鳥居この右辺りから7月ヒメホタルが舞う 大成神宮

大成神宮本殿


ここは、高知県檮原町に近く幕末の志士、坂本龍馬が脱藩の道、又長州・長崎・薩摩への活動の道に近い。
戦国時代末期38代城主河野通宣は土佐長宗我部等の侵入に備え弘治2年(1556年)分家の中川主膳正源直清公を派遣、大成城を築城し再三再四の土佐からの侵入を防いだ。

左大成神宮 右初瀬の大桂 伏見博明さん悠久の書
(大桂の傍ら)

大桂 株まわり29m
大桂 高さ40m 日本一初瀬の大桂


磐座(いわくら)神の御座所
(大成神社)

39代城主河野通直は天正13年(1585年)豊臣秀吉の四国攻めで、小早川隆景の勧めもあって湯築城は開場し所領は没収され伊予の大名として君臨した河野氏は滅亡しました。 その後、伊予国の領主として松前城に加藤嘉明氏が就任するが、1600年関ヶ原の戦いに東軍として参戦、留守を狙って西軍の毛利軍と再興をはかる河野氏の残党が松前城を襲うが惨敗を喫した。その河野氏の残党が山深い大成の地に隠遁生活を送ることになります。その鎮守社が大成神宮であり、大正3年火災で焼失、平成7年5月再建されました。
河野一族にとっては意義深い土地であり大成神宮です。

次に面河渓谷:面河茶屋・渓泉亭で「アマゴの塩焼き定食」。旨かった!! 

面河渓谷
右中央少し下に面河茶屋渓泉亭が見える
面河渓谷2


ここは花崗岩による岸壁や川底の美しさと紅葉(21号台風で葉なし)です。面河山岳博物館前に「猿飛佐助誕生の地」の碑があります。博物館から少し上流右側に「猿谷山」があり「猿飛谷」もあり架空の忍術使い猿飛佐助 (真田十勇士・今治出身作家池田蘭子)の名付けの元です。

猿飛谷の滝(写真;右) 
猿飛佐助銘々の地:創作上の架空の人物




第三日目




ホテル椿館前にて

8:45分ホテル出発 道後公園・湯築城資料館館長から資料館をはじめ城内を2時間余の説明を受けました。

 1180年4月、以仁王と源頼政が平家打倒の挙兵を計画し、諸国の源氏や大寺社に蜂起を促す令旨を発した。頼朝は同年8月、平氏打倒の旗を挙げた。22代河野通清・23代通信親子も風早郡河野郷で、同年12月蜂起、国府の平惟盛目代とその一党を現在の西条市丹原町の赤滝城まで追い詰め攻め落とした。 翌年1181年8月、平家方の備後国の住人、額入道西寂が討伐軍として伊予へ攻め寄せ、通清は高縄城で討死にした。その時、子の通信は九州で挙兵した源氏方勢力の応援をしていた。1185年2月屋島の合戦4月長門の壇ノ浦の合戦にも参戦し通信は源氏軍船の中堅となって活躍し源氏を勝利に導いた功績は大きかった。

 戦後は鎌倉幕府の御家人の地位を得て伊予国最大の武士団に成長した。1189年の奥州合戦にも従軍活躍し、梶原景時の変にも参加、北条時政に気に入られ時政の娘を娶った。 承久の乱1221年には通信の子道政と孫通秀が西面武士として院庁に仕えていた関係で朝廷方につくが敗北、一方の通信の子道久は幕府方に加担、通信は捕虜となって陸奥の江刺に流罪、弟通末は長野県佐久市臼田町に流罪、道政は斬首、通秀は戦死し、所領の多くは没収され、24代道久によって辛うじて存続となった。

1281年弘安の役、蒙古襲来の時、道久の孫26代道有が水軍を率いて活躍、敵船に乗り込み敵将を生捕る武勲を挙げ、恩賞地として、佐賀県神崎郷辺りと熊本県松橋町辺りを領地として貰う。河野氏の旧領も回復し、再び伊予での勢力を取り戻した。道有の子27代通盛は150年続いた風早郡河野郷から1335年道後の湯築城に本拠を移し、盛衰を繰り返しながら1585年秀吉の四国攻め、36代通直までの250年間湯築城は続きました。

道後公園250年の歴史を刻む湯築城跡

河野氏は鎌倉幕府・南北朝時代・室町時代の約400年間、鎌倉・京都、奥州、九州の乱に参戦、また、地元阿波の田口・讃岐の細川・土佐の長宗我部・一条・山本の攻撃を受け、時には中国の村上・毛利・小早川の応援を受けながらの400年でした。

 活動が活発だった河野水軍の末裔は全国に散らばって居ます。例えば福井県河野浦地区に河野村2002年の人口2,294人、河野観光協会もあり、河野水軍が南北朝時代の1337年、金ケ崎城の戦いで、新田義貞率いる南朝方について参戦したが、北朝方の攻撃で落城し、逃避してきたところが地区名村名になっています。現在は、福井県南条郡南越前町河野です。海に迫る山々の僅かな土地に河野浦の街並みが湾に沿って続き今は、「河野北前船主通り」と命名されています。 彼らは操船技術を活かし北前船で生活を立て時代の流に伴いながら豊かな村となりました。

甲斐の武田信玄が水軍を編成時、河野通重等は支援を惜しまず、その地に住み付き末裔が山梨・静岡の県に残って居ると言います。宮崎県も名字ランクで河野姓が三位、熊本不知火地区も河野姓の多いところのようです。積極的に働き、積極的に政略結婚も勧め,剛軟を使い分けての400年です。まだまだ知りたいこと覗いて見たい処も沢山あります。

 湯築城と11時にお別れしタクシーに分乗してJR松山駅に向かいます。 駅の売店で宇和島名物、揚げたての"ジャコ天"等を土産に、列車内での昼食弁当を受け取り、今後の健康を誓い合いながら、ここにて解散、皆様お疲れ様でした。12:20分発岡山・松方面行き列車に乗り込みました。




M友会中四国支部  岡 春男